年間第27主日(A年)
福音=マタイ21:33-43
「神の国は…それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21:43)
今日の福音でイエスは一つのたとえ話を語る。何が何にたとえられているかというと、まず、ぶどう園を作った主人とは神を指す。ぶどう園というのは、聖書全体の主人公であるイスラエルのことである。悪い農夫たちとは、イスラエルの指導者たち、すなわち、イエスがこのたとえ話を語りかける相手である祭司長や民の長老たちのことである。そして、ぶどう園の主人の息子とは、イエス自身のことなのだろう。このように考えるなら、このたとえ話の意味は、イスラエルの指導者たちが神の思いに背いて、神の子であるイエスを殺してしまう、ということになるだろう。
この指導者たちの背きは、次のような点にある。彼らは、たくさんのぶどうを収穫できたのは、最初にぶどう園を作っていろいろな準備をした主人のおかげだということを忘れて、あたかも自分たちだけの力で実りを得たかのように考えて、収穫を主人に渡そうとしなかったことだ。神から与えられた仕事を一生懸命果たすこと、これはもちろん大切なことだが、それと同時に忘れてならないことは、その仕事がうまくいくように心を配ってくださる神に感謝することである。
ミサでは感謝の典礼が始まると、司祭は「パンとぶどう酒を供える祈り」を唱える。
「神よ、あなたは万物の造り主、
ここに備えるパン(ぶどう酒)はあなたからいただいたもの、
大地の恵み、労働の実り、
わたしたちのいのちの糧となるものです。」
典礼の歴史をたどると、信者たちが、自分で作ったいろいろな収穫物を持って、祭壇まで行列して神に奉納していた時代があったようだ。それが次第に収穫物の代わりに献金するようになった。司祭が奉納された収穫物を受け取った後に手を洗うことは、現物奉納の時代には必要なことだった(現在では「内的な清め」の意味で行われている)。ここで忘れてならないことは、「備えるパンとぶどう酒」は「あなた(神)からいただいたもの」だということである。「大地の恵み」と「労働の実り」が一つになって初めて神へのふさわしい捧げものになるのだ。実りは自分の労働の成果とだけ考えるのではなく、神の恵みの実りでもあることをいつも思い起したい。
カトリック高蔵寺教会