年間第28主日(B年)

福音=マルコ10:17-27


「人間にできることではないが、神にはできる。神にはできないことはない」(マルコ10:27

 

 きょうの福音は、イエスに従うということが、財産放棄をめぐって論じられる。イエスが要求することは、「人間にできることではない」まさに神業である。「神にはできないことはない」と同じ表現は、創世記18:14に出てくる。 (主はアブラハムに言われた。)「…主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」この約束のことばによって、救いが事実となり、不可能と思われたことが実現した。

 きょうの福音において、財産(土地などの不動産を差す)を捨てることは、イエスに従うための前提条件というよりは、その人にとって、イエスに従おうとするときの具体的なあり方と言える。捨てるものは人さまざまです。シモンとアンデレは「網」を捨てて(1:18)、ヤコブとヨハネは「父」を捨てて(1:20)、レビは「収税所の机」を捨てて(2:14)、それぞれイエスに従った。イエスに従えとの呼びかけにおいて、問題とされるのは、その人の所有物ではなく、人間存在全体である。このような「信従」の実現は、まったく神のイニシアチブによる。神の呼びかけには、それに応える力も伴っているはずだ。それにもかかわらず、私たちは、この青年と同じような挫折をしばしば体験する。それは神への呼びかけに対する拒否というよりは、呼びかけに応えるところまで突き進めなかった悲しみである。最終的な決断は、あくまでも一人ひとりに委ねられているが、神の愛の全能性がそれを支える。

 共観福音書の中で、イエスがある特定の人を「愛した」のは、マルコのこの箇所だけである。ここには、イエスの「見つめる」(1:21,23,27)愛のまなざしが隅々にまで行き渡っている。イエスの呼びかけは、服従の要求でなく愛の導きである。