年間第2主日(B年)

福音=ヨハネ1:35-42


「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(ヨハネ1:37

 

 ヨハネ福音書1:35-42における「弟子の召命」の記事を共観福音書のそれと比較すると、明らかな特徴が見られる。それは召命の間接性である。直接イエスに召されるのは、フィリポだけで、それ以外の四人の弟子はすべて誰かの仲介を経てイエスの弟子となる。洗礼者ヨハネの弟子であった二人(一人はアンデレ)は、洗礼者ヨハネの証しによって、ペトロはアンデレの、ナタナエルはフィリポの証言によって弟子となる。このような間接的な召命の話は、12:20-22においてもう一度出てくる。数人のギリシア人がフィリポのところに来て、イエスとの面会を申し入れると、フィリポはアンデレのところへ行き、二人はイエスのもとに伝えに行く。さらに注目すべきことは、この一連の証言の中で、イエスに対して順に、「神の小羊」(29節・36節)、「メシア」(41節)、「神の子」(49節)、「イスラエルの王」(49節)というように様々な称号が列挙されていき、最後にイエス自身が自らを「人の子」と呼んでいることである。

 このようなヨハネに特徴的な弟子の召命の間接性と、「人の子」イエスへの信仰告白は、密接な関係を保ちながら、ヨハネ共同体が抱えていた深刻な神学的問題に解答を与えている。

 ヨハネ共同体は、イエスの死からおよそ60年以上も後の時代である一世紀末に生きていた。したがって、ヨハネ共同体の信者は、生前のイエスに直接召し出されて弟子となったのではなく、何世代かのキリスト教伝道者たちの宣教に仲介されて信者となった人々だった。そこで、共同体の中で、生前のイエスに召し出された弟子たちと、間接的に召し出された自分たちの間に、イエスに従うという点において違いがあるのだろうかという問題が生じたと思われる。このような疑問に対して、ヨハネは弟子の召命の間接性を強調することによって、直接イエスに召された者も間接的に召された者も、イエスに従うことにおいて、何ら優劣がないことを示した。なぜなら、「人の子」イエスは、あらゆる時を越えている方なので、60年以上の時間的隔たりは乗り越えられ、いつの時代の信者も「人の子」イエスに等しく従うことになるからである。だからこそ、イエスに対する様々な称号は、最後に「人の子」へと至るように構成されている。

 私たちは、60年どころか二千年近くも隔たった時代にイエスに従って生きようとしている。しかし、イエスに従うということにおいて、イエスから直接召された弟子たちと何ら違いはないのである。