年間第30主日(A年)
福音=マタイ22:34-40
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)
マタイ福音書は、イエスを「旧約の完成者」として描く(5:17)。今日の福音をマルコの並行箇所(12:28-34)と比較すると、マタイのこうしたイエス理解がより明瞭に示されていることがわかる。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(40節)-「律法全体と預言者」とは、言うまでもなく旧約聖書を指す。「基づいている」と訳されている「クレマンニューミ」というギリシア語は「ぶら下がっている」状態を表す。つまり、旧約聖書全体は「神への愛と人への愛」という二つの掟に「ぶら下がっている」。ちょうど、扉がちょうつがいに、荷物が物掛けに掛かっているように掛かっている。ちょうつがいがなければ、扉がその機能を果たせず、物掛けがなければ荷物が掛けられないのと同じように、「神への愛と人への愛」という二つの掟がなければ、旧約聖書全体が生きたものとはならない。だからこそ、この二つの掟は、単に掟の中で重要なものの一つとか二つとかいうのではなく、「最も重要な第一の掟」(38節)なのである。
ファリサイ派の人々が、「神への愛と人への愛」という掟が最も重要であることを知らなかったわけではないだろう。しかし、彼らとイエスの律法理解には根本的な相違がある。ファリサイ派の人々にとって、掟はすべて等しく守るべきものである。これに対してイエス
は、掟には「神への愛と人への愛」という要があり、これこそが掟の命であり、他のすべての掟はこれに従属するものであると主張する。そして、主張するだけでなく、身をもってこのことを示した。このようなイエスを受け入れることができなかった彼らは、ついにはイエスを木に「かけて」(クレマンニューミ)殺してしまった(使5:30; 10:39)。
旧約が「神への愛と人への愛」にかかっているなら、新約がかかっている「神への愛と人への愛」はイエスの十字架に他ならない。イエスは自らの十字架によって旧い契約を完成し、新しい契約をもたらした。この新しい契約に生きようとするキリスト者は、ミサに与るたびに、イエスが身をもって示された生き方を自分のものとすることを約束し直す。
カトリック高蔵寺教会