年間第31主日(A年)

福音=マタイ23:1-12


「そのすることは、すべて人に見せるためである」(マタイ23:5

 

 マタイ23章において、イエスは律法学者たちやファリサイ派の人々の「偽善」を厳しく批判する。それは、彼らに対する警戒の呼びかけ(1-12節)に始まり―きょうの福音の箇所―、それに続いて彼らへの七つの呪い(13-36節)が語られ、そしてその呪いはエルサレム全体へと高められ、24章における「終末審判」というテーマにつながっていく。

 マタイ福音書では、律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエスからしばしば「偽善者」と呼ばれている。新約聖書における18箇所の用例のうち、14箇所がマタイ福音書に見られる(6:2,5,16 / 7:5 / 15:7 / 22:18 / 23:13,[14] ,15,23,25,27,29 / 24:51)。「偽善者」と訳される「ヒュポクリテース」とは、元来「役者」を意味します。「役者」は劇中のある登場人物の役を演じる。たとえ「役者」がその役になりきって迫真の演技をしたとしても、それはあくまでも観客が見ている舞台の上でのことにすぎず、いったん舞台を降りれば、「役者」は「役」を脱ぎ捨てて自分に戻る。舞台は現実の世界ではなく、あくまでも「人に見せる」ための見せかけの世界にすぎない。

 律法学者やファリサイ派の人々の生き方は、役を演じている「役者」に似ている。人が見ているところでは「神に従う」役を演じるが、それはあくまでも「人に見せる」(5節)ためなので、「宴会」や「会堂」や「広場」という舞台以外の場では、「役」を脱ぎ捨ててしまう。「聖句の入った小箱」(5節)とは、「主の言葉を心に留め、魂に刻む」(申11:18)ためのしるしであり、「衣服の房」(5節)とは、「主のすべての命令を思い起こし、守る」(民15:39)ためのしるしだった。ところが、律法学者やファリサイ派の人々にとって、「しるし」は簡単に脱ぎ捨てられる「役」にすぎなくなっていた。神の言葉は、心に刻み込まれたときに初めて、演じる「役」ではなく現実の「生」になる。ここに新しい契約の本質がある。

 神の言葉が「心の中でエネルギーとなって働く」(1テサ2:13)とき、「役者」は真に「神に従う者」となり、「見せかけの舞台」は「神の国」となっていく。わたしたち一人ひとりが神の言葉に生かされているとき、それぞれの生活の場に神の国が実現し始める。