「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)
聖書が語る救いは、人間の側にイニシアチブがない。救いのイニシアチブは常に神の側にある。今日の福音でも、救いとは神の「恵みの業」であることがよく示されている。
救いの出来事は、イエスとザアカイの出会いによって起こるが、ザアカイがイエスをなんとか一目見ようとしたことの中に、すでに救いの業が始まっている。出会いは、イエスによるザアカイへの呼びかけによって始まり、その呼びかけに対して、ザアカイの応答がある。そして、イエスとの出会いによって、ザアカイは自分の生活を根本的に変えようとする。彼は不法なことをしないだけではなく、財産の半分を貧しい人々に施そうとする。それが救いだ、とイエスは言う。救いはいつも神の視点から語られる。救いとは神の意志がザアカイのうちに実現したということなのだ。この意味において、神の救いの意志とは、神の「恵みの御業」として現れる。そこに神がどのようなお方であるかが示されている。それを聖書は神の「ツェダカー」というヘブライ語で表現する。ツェダカーは、元来「正義」とか「義」と訳されてきたが、新共同訳では「恵みの(御)業」という訳語を採用した。このツェダカーは、時代が下ると「慈善」という意味でも使われるようになった。ちなみに『箴言』では、ほとんどが「慈善」と訳されている。つまり、ザアカイの施し-「慈善」(ツェダカー)は、神の「正義」-「恵みの御業」(ツェダカー)の具体的な現れなのである。そしてルカはこの出来事を彼の教会の具体的状況に直接関係づけている。すなわちルカは、教会の裕福な信者に対して、貧しい人々への施しを強調する。