年間第32主日(A年)
福音=マタイ25:1-13
「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(マタイ25:4)
きょうの福音において、わたしたちに求められている「賢さ」とは、「目を覚ましている」(13節)ことである。しかし、たとえ話に出てくる十人のおとめは、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と言われているので、単に眠らないでいるということではないようだ。
それでは、どこに「賢さ」があるのだろうか。10節では、「用意のできている五人」と言われているので、「賢さ」とは「用意のできている」ことであることがわかる。しかし、十人とも全員、ともし火を持っていたとあるので、単にともし火を用意しているだけではないようだ。問題は油を用意していたかどうかにある。それでは、「ともし火」とは何だろうか。「油」とは何だろうか。
真夜中に花婿が来たとき、「おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた」(7節)とある。ここで「整える」と訳されているギリシア語は、元来「飾る」ということを表す。この言葉の意味から考えるなら、「ともし火」とは、外側から目に見える形での用意ということになる。
これに対して「油」とは、他の人に分けたり、他の人から分けられたりできず、自分の分は自分で用意しなければならないもののようである(9節)。油が尽きれば、ともし火は消えてしまうように、油は目に見える形の「ともし火」を目に見えない形で支えているものなのだ。「ともし火」が外側から見える「用意」であるなら、「油」はそれを支える、より根本的な内側の「用意」であると言えるだろう。その意味で、「ともし火」とは、内側の「用意」である「油」を外側に輝かすものなのだ。
わたしたちは、ときには疲れて眠り込んでしまうこともあるが、きょうの福音のたとえ話は、そのこと自体を咎めてはいない。それは一時のことにすぎないからだ。問題は「油」の用意がしてあるかどうかだ。日頃から少しずつ用意をしていれば、花婿の不意の到来にもあわてなくてすむはずだ。日頃、用意することなく、あわてて「ともし火」をつけても、長続きしない。わたしたちも一度つけた「ともし火」を消さないように、毎日の生活の中で少しずつ「油」を用意しよう。美しく着飾ってやって来られる主を迎えるわたしたちの「ともし火」が、それにふさわしい輝きを放つことができるように用意しよう。
カトリック高蔵寺教会