年間第33主日(B年)
福音=マルコ13:24-32
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)
黙示文学によると、終末の時には死者の復活が待望されており、イエスの弟子たちも、イエスの死と復活をこのような背景のなかで理解した。イエスの十字架は、死の闇を切り開き、そこに光をもたらす終末的救いの出来事なのである。したがって、聖書の語る終末は滅びの時ではない。きょうの福音も、終末の日が裁きの時というより救いの時であることを強調する。救いにあずかる「選ばれた人たち」が誰かについて、きょうの福音は何も語らないが、それは、イエスをメシアと信じ、罪をゆるす神の愛に身を委ね、その愛を隣人に広げようと努める人たちと言えるだろう。
しかも、その日の到来は近いとマルコは語る。終末の接近という認識は初代教会に広がっていた。パウロも最初は自分が生きている間に終末が訪れると確信していたようだ(1テサ4:16-17)。しかし、きょうの福音にもあるように、終末がいつ訪れるかについて、人間は誰も知らず、それを知るのは神のみである。終末の接近を確信していたパウロですら、終末の時を知ろうとすることは無駄であり、無意味だと述べている(1テサ5:1)。なぜなら終末は、イエスを信じない者にとっては、突然襲いかかってくる破滅だが、イエスを信じる者にとってはそうではないからだ。終末の時は救いの時であり、しかもそれが確かであるなら、その到来を心配して恐れる必要はまったくない。
終末が救いの時だと知る者は不安から解放され、「今」を精一杯生きることになる。だからイエスはきょうの福音の直後に、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(13:33)と述べて、弟子たちの視線を「今」に引き戻す。終末を信じるキリスト者は将来を心配して、おどおど生きることはない。安心して「今」を懸命に生きることができる。聖書が語る終末の出来事は、いたずらに人を不安がらせるために語られているのではない。それは、決して滅びることのないものに目覚めさせ、それにふさわしく「今」を生きるためである。
カトリック高蔵寺教会