年間第3主日A年
福音=マタイ4:12-23
「二人はすぐに網を捨てて従った」(マタイ4:20)
マタイは、十二使徒の構成を語らない。きょうの福音で語られる「四人の弟子の召命」と9章9節の 「マタイの召命」の後、この十二使徒は自明のもとして存在する。マタイは10章2節を例外として「使徒」の語を避ける。十二人もたいていは「弟子」と呼ぶ。マタイの教会は自らを十二「弟子」と同定するが、「使徒」はそうではない。
マタイは地上のイエスと現在働く高挙の主を一緒に眺める。マタイにとって、教会の起源に関しては、「歴史的な」意味と同時に「典型的な」意味を持つ。天の国に関するイエスの福音が告知されるところでは(4:17)、人間はラディカルな従順へと呼び掛けられる。そのようにして教会は生起したのであり、生起する。プロローグにおいても、神の子イエスのガリラヤ到来の結果と目的とは、教会の成立であることがはっきりしなければならない。「異邦人のガリラヤ」は教会の発生地なのである。
そもそも「異邦人のガリラヤ」は虚構である。マタイにとって、イエスはイスラエルのメシアであり、イスラエルのシナゴーグで活動し、彼の弟子たちに対してイスラエル以外の地での宣教を禁止した(10:5-6)。歴史的には70年以降は、ガリラヤはイスラエルの中核地であった。マタイは、イエスの派遣が救済史上に呼び起こすこと、すなわち救いが異邦人に向かうということを前もって示そうとする。
マタイの教会には、特別な集団の信従者も基本的な職制構造もない。弟子たちの信従は、イエスに賛同する民衆から彼らを区別せず、民衆はイエスに従うことを通して弟子たちと一緒になる(4:18-22,25)。マタイにとって、信従は復活後にもあり、また信従がまさに教会の本質を作り上げている。
マタイにおいて、父親を置き去りにすることは重要性を持つ(8:21、10:35-37、19:29、23:9)。マタイの共同体は、教会とシナゴーグの分離後、エルサレムの破壊後の時を生きている。父(性)との決別は、シナゴーグとの痛々しい分離やユダヤ戦争の混乱による家族の分裂を反映している。
カトリック高蔵寺教会