年間第6主日A年

福音=マタイ5:17-37


「わたしが来たのは、律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17

 

 ユダヤ教の一分派であった最初期のキリスト者たちにとって、律法に対する態度に揺れがあっことは、パウロの手紙からも明らかである。ユダヤ教の伝統的な教えに従って、律法遵守を救いの必須条件と考える人々がいる一方、律法はイエスによって無用とされたとする人々がいた。今日の福音-「わたしが来たのは、律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである」(17節)-は、ユダヤ人キリスト者であったとマタイが、こうした両者の考え方を調停しようとした教えなのだろう。

 「廃止する」(カタリュオー)とは、元来「ばらばらにする」という意味である。「ばらばらにする」とは、「神への愛」と「隣人への愛」を教えの根幹とする律法本来の精神が忘れられて、書かれた文字から精神が遊離してしまうことである。「廃止する」ということをこのように捉えるなら、「完成する」とは、ただ書かれた文字を一字一句守ることではないことがわかる。「完成する」とは、書かれた文字と精神を一つに結び合わせて、律法本来の姿に戻すことなのだ。

 申命記41-2節は、掟を実行することが、救い、すなわち約束の地への入国の条件とされる。ところが、5-6節では、掟の実行は入国後のこととされていて、掟の実行と入国をめぐって一見、矛盾する記述がされる。この両者を同じ箇所に併記することのなかに、掟の実行と救いの関係に対する深い洞察が見られる。掟の実行と救いは、あたかも螺旋階段のようになっている。ある箇所を見れば、掟の実行が救いをもたらすように見えるが、別の箇所を見れば、救いが掟の実行を促すようにも見える。掟は人を縛るものではなく、より高い救いの次元へと人を導く神の呼びかけなのだろう。この呼びかけに真摯に応える人が「天の国で大いなる者と呼ばれる」(マタ5:19)のだ。