待降節第1主日A年

福音=マタイ24:37-44


「目を覚ましていなさい」(マタイ24:42

 

 典礼暦では、待降節第1主日から新しい一年が始まる。教会は新しい年の初めに毎年、イエスの終末的来臨を記念する。教会は待降節の始まりにあたって、信者の目を終末の時に向け、歩むべき方向を明確に示す。

 イスラエルの「待望」が現代人のそれとは次元を異にする激しいものであったのは、彼らが現代人とは異なる「時間」観念を持っていたからである。彼らは時間を特定の出来事と結び付けて考えた。『コヘレトの言葉』は、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)と言う。それは一つひとつの物事にはそれ固有の「満たされた時」があるという歴史理解によっている。つまり、彼らにとって、歴史とは偶然の出来事の連続ではなく、神の救いの歴史である。したがって、神の救いが現在化される祝祭日の祭儀や安息日は、まさに「満たされた時」なのであり、それは時の流れの中にあるというより、むしろこうした出来事こそが時そのものを造るものであった。

 さらに預言者たちは、神がその民のために新しい「時間」を開始してくださり、それが過去の「時」を凌駕するばかりでなく、時間そのものを完成し、神を信じる者には決定的な救いの時になると説いた。預言者たちは、こうした神の全く新しい終末的現れを「主の日」と呼んだ。

 きょうの福音におけるイエスのことばは、この新しい時を「解放の時」として語る。主の来臨は全世界の人々を不安と恐怖で満たし、恐ろしい罠となるが、来臨を待望する弟子たちにとっては、決定的な解放をもたらす喜びの時となる。そしてその時は、主の受難と復活によってすでに始められているのだ。

終末とは、決して無限に遠い未来のことではない。その時は今の時の中ですでに始まっている。だからこそ、「いつも目を覚まして祈る」ことが求められている。