待降節第1主日(C年) 

 

福音=ルカ21:25-28,34-36


「いつも目をさまして祈りなさい」(ルカ21:36

 

 典礼暦では、待降節第1主日から新しい一年が始まります。教会は新しい年の初めに毎年、イエスの終末的来臨を記念する。教会は待降節の始まりにあたって、信者の目を終末の時に向け、歩むべき方向を明確に示します。

 イスラエルの「待望」が現代人のそれとは次元を異にする激しいものであったのは、彼らが現代人とは異なる「時間」観念を持っていたからである。彼らは時間を特定の出来事と結び付けて考えた。『コヘレトの言葉』は、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)と言う。それは一つひとつの物事にはそれ固有の「満たされた時」があるという歴史理解によっている。つまり、彼らにとって、歴史とは偶然の出来事の連続ではなく、神の救いの歴史である。したがって、神の救いが現在化される祝祭日の祭儀や安息日は、まさに「満たされた時」なのであり、それは時の流れの中にあるというより、むしろこうした出来事こそが時そのものを造るものであった。

 さらに預言者たちは、神がその民のために新しい「時間」を開始してくださり、それが過去の「時」を凌駕するばかりでなく、時間そのものを完成し、神を信じる者には決定的な救いの時になると説いた。預言者たちは、こうした神の全く新しい終末的現れを「主の日」と呼んだ。

 きょうの第一朗読の『エレミヤの預言』は、こうした神の新しい終末的現れについて語る。そこでは、メシアの出現によってもたらされるエルサレムの平和と救いが強調される。また第二朗読では、パウロは主の栄光に満ちた来臨待望から生じる恵みについて語る。その恵みとは相互の愛とすべての人に対する愛、神の前における聖性である。

きょうの福音におけるイエスのことばは、この新しい時を「解放の時」として語る。主の来臨は全世界の人々を不安と恐怖で満たし、恐ろしい罠となるが、来臨を待望する弟子たちにとっては、決定的な解放をもたらす喜びの時となる。そしてその時は、主の受難と復活によってすでに始められているのだ。

終末とは、決して無限に遠い未来のことではない。その時は今の時の中ですでに始まっている。だからこそ、「いつも目を覚まして祈る」ことが求められている。