待降節第2主日(B年) 

福音=マルコ1:1-8


「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:4

 

 洗礼者ヨハネは旧約と新約の橋渡しをした人と言える。その意味で彼は、旧約時代最後の預言者であると同時に、新約時代の幕開けを告げる人でもある。彼は、旧約の預言者たちと同様、回心する必要がないと考えていた「敬虔な」人々に悔い改めを呼びかけた。しかしながら、彼が直ちに悔い改めるように呼びかけた理由は、旧約の預言者と異なる。彼らは、過去の社会的不正や偶像礼拝から、神の定めた正しい道に立ち帰ることを求めた。これに対してヨハネは、今、神の国が近づいているがゆえに、それをふさわしく迎えるために悔い改めを呼びかけた。そして、彼は悔い改めを呼びかけるだけではなく、終わりの時が近づいたしるしとして、悔い改めの洗礼を授けた。この悔い改めの洗礼により、人々は罪の赦しを得、回心に導かれた。つまり、新約における改心とは、恵みとして与えられた力であると同時に課題でもある。人は神から終末的恵みとして「回心できる力」を与えられていると同時に、回心することを課題として求められているのだ。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」というイエスの宣教の言葉は、洗礼者ヨハネの言葉と共通する。しかし、ヨハネとイエスの間には、はっきりとした違いがある。すなわちイエスは、ご自分が来たことによって神の決定的な支配が実現し始めたと主張した。回心とは、もはや律法への忠実ではなく、イエスに対する忠実を意味する。したがって、悔い改めの呼びかけは、イエスに従うことへの呼びかけとなる。回心と信仰とイエスに従うことは、別々の事柄ではなく、同じ事柄なのである。

 悔い改めの要求がいかに厳しいものであっても、回心が可能になることに喜びがある。神ご自身が人間の方に近づいて来てくださるからこそ、人は神に立ち帰ることができる。回心とは、イエスにおいて新たな命が与えられ、それによってイエスに従って生きることができるようになる、ということなのだ。それゆえに、回心と悔い改めは喜びを伴う行為となる。 新しい典礼暦年の始まりである待降節は、イエスに従って生きる喜びと決意を新たにするときでもある。