待降節第3主日(B年) 

福音=ヨハネ1:6-8,19-28


「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(ヨハネ1:23

 

 紀元前6世紀の中頃、捕囚の地にあって、一人の無名の預言者が「荒れ野に道を備えよ」との呼び声を聞き、それを捕囚の民に告げた。その声に励まされて、彼らはエルサレムへと帰って行った。捕囚からの解放、祖国への帰還という救いの喜びは、目を開き、耳を開き、口を開いて、主への賛美というさらに大きな喜びとなった。

 この声は六百年のときを隔てて、「荒れ野の叫び声」となる洗礼者ヨハネの誕生をザカリアに告げたが、これを聞き入れられなかった彼は、一度は口を閉ざされる。しかし、この声を心から受け入れたときに、閉ざされた口は開かれて、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。…」と賛美の歌を歌った。そして、ザカリアの子である洗礼者ヨハネは、まさにこの「声の人」となった。

 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネの使命が「告げる」ことにあることを特に強調する。洗礼者ヨハネはイエスについて次のように告げる。

 1)ユダヤ人に問われて、自分の使命は主の道を準備することであると答える。

 2)自分の方に来られるイエスを見て、「神の小羊」、「神の子」であると言う。

そしてこのように告げることによって、彼は自分の弟子たちをイエスに従わせる。洗礼者ヨハネは、自分自身が「メシア」、「エリヤ」、「預言者」といった終末時に決定的な使命を果たす者ではなく、「荒れ野で叫ぶ声」であると告げる。それは彼の使命が民をイエスへと橋渡しすることにあるということを意味する。彼は彼の言葉を聞く人々の目を「来るべき方」に向ける。

 もう一つの「声」は、マリアに語られた。マリアはこの「声」にとまどいながらもこれを受け入れて、「わたしの魂は主をあがめ、…」と賛美の歌を歌った。こうして、あの捕囚の地での「呼び声」は、救い主の誕生という一つの出来事となった。

 その「声」は時空を越えて、今も私たち一人ひとりが主に向かって開かれるようにと呼びかけている。その呼びかけに応えて、体も心も開かれて、主への賛美を心から歌うことができるようになりたい。