待降節第4主日A年

福音=マタイ1:18-24


「その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1:21

 

 降誕祭のイコンを見ると、細かい違いはあるが、基本的な構図は共通している。たいてい、左の下方に、深い物思いにふけって座るヨセフが描かれる。このヨセフの前には、年老いた羊飼いのような姿をした悪魔が立つ。中央に大きく描かれたマリアは、ヨセフを憐れむように見下ろしている。こうした配置からして、ヨセフは決して救い主誕生の出来事の中心ではないことが分かる。

 ヨセフの前に立つ悪魔は、処女が身ごもって子を産むことは不可能であるという考えを吹き込んで、ヨセフを誘惑する。このヨセフの疑惑の念は、一般の人々の疑惑を表していると言える。このようなヨセフを、そして信じない者たちをマリアは同情と憐れみの心をもって眺めている。

 今日の福音は、ヨセフの神への信頼を語るが、降誕祭のイコンは、ここに至るまでのヨセフの人間的な葛藤を描いていると言える。この葛藤するヨセフの姿は、私たち自身の姿を映し出しているかのようだ。人間の理解を越える出来事に遭遇したとき、行き詰って絶望してしまうか、それとも理解を越える状況そのものを受け入れて、出来事の中に飛び込んでいくか、という二つの道がある。ヨセフは疑い悩みながらも、受け入れることを決断した。そのとき、彼の闇の心に光が差し込んだ。一度は深い疑いと絶望の底に陥りながらも、そこから引き上げられ、神への信頼を回復するヨセフの姿は、信仰の道を歩む者の姿でもある。