待降節第4主日(B年) 

福音=ルカ1:26-38


「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38

 

 

 ルカ1:26-39は、天使とマリアの行為と言葉によって、次のように構成されている(構成が際立つように、ギリシア語本文を直訳風に示す)。

 マリアは天使の言葉①を聞いて「戸惑い」、「考え込んだ」。「戸惑う」と訳されているギリシア語「ディアタラッソー」は、新約聖書中、他に用例がないが、人間の理解を越えることに対する「困惑」が表されていると言える。「考え込む」と訳されている「ディアロギゾマイ」は、この他に15の用例があり、いずれもイエスの弟子たちや敵対者たちの中に生じる「疑惑」を表す。ただし、ルカ3:15では、民衆のメシアに対する「待望」に関係する(エイミィの希求法・現在形エイエが使われている)。この用例は、「何のことか」と訳されている「ポタポス(どんな)エイエ(~だろう)」の意味を考えるときに参考になる。「ポタポス」は新約聖書中、7回使われているが、希求法はここだけである。ここでの希求法は文法的には間接疑問の用法だが、38節で使われている希求法との関連が考えられる。このような語句の用例から考えるなら、29節におけるマリアの「困惑」、「疑惑」は、単なる「疑い」ではなく、救いの出来事の始まりに対する「希望」をも表していると言えよう。

 天使の言葉②を聞いて、マリアは「どのようになるだろうか」(エイミィの直接法・未来形エスタイ)と言う(34節)。「疑惑」を残しながらも、マリアの思いは「希望」を込めて、未来に向けられる。

 天使の言葉③によって、マリアの中で次第に増してきた「希望」はついに「疑惑」を乗り越える-「あなたの言葉どおりに、わたしに成りますように(ギノマイの希求法・第2アオリスト形ゲノト)」。

 ルカ福音書において、マリアは「神の言葉を聞き、それを行う」(8:21 / 11:28)ゆえに、幸いな者と呼ばれる。そして、それはイエスに従おうとする者に求められていることでもある(10:42)。信仰の道には、救いへの希望と同時に様々な疑いも伴う。神の言葉に虚心に耳を傾けるなら、希望が増し、そうでないなら疑いが増す。神の言葉がもたらす希望が現実を変えるのだ。