待降節第4主日(C年) 

福音=ルカ1:39-45


「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45

 

 エリサベトはマリアへの祝詞を「聖霊に満たされて、声高らかに言った」。エリサベトがマリアに「あなたは女の中で祝福された方」と言うとき、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼ぶ。彼女はマリアの胎内の子を「わたしの主」と見る。しかし、どのようにして彼女はマリアの胎内の子を「わたしの主」と認めたのか。

 一世紀の教会において、「イエスは主である」と言えるのはひとえに聖霊によるとする(1コリ12:3)。だから、エリサベトがマリアを「わたしの主のお母さま」と呼ぶことができるのは、「聖霊に満たされて」とルカは書く。エリサベトが「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」と語るとき、それは聖霊の助けにより「イエスは主である」と公に言い表しているのである。

 したがってエリサベトのように、私たちが「わたしの主のお母さま」としてマリアに目を向けるとき、それは聖霊の働きに他ならない。しかし、エリサベトがマリアを「祝福された方」と呼ぶのは、マリアの母性が神のことばへの彼女の信頼に基づくからである-「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」-。救い主の母となられたマリアの母性のすばらしさは、それがひとえに神のことばへの彼女の信頼の結果であるからなのだ。そしてこの点にこそマリアの救い主の母たる偉大さがある。そしてマリアの処女性もこのこととの関係のなかで理解すべきである。

  だが、神のことばを信じるのは大変なことである。マリアは我が子の十字架上のむごたらしい死をも受け入れなければならない。神のことばを受け入れたマリアはまず何をしたか。それは六ヶ月の身重になっていたエリサベトのもとに三ヶ月、すなわちヨハネが生まれるまで滞在したと伝えられること(ルカ1:56)に暗示されている。若いマリアが、かなり年の身重のエリサベトに代わって家事や野良仕事一切を引き受けたということを、ルカは言外に言いたいのだろう。他人への奉仕、これが神のことばを受け入れた人の最初の行動である、と。