復活節第3主日A

福音=ルカ24:13‐35


「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」(ルカ24:35

 

 今日の福音は、エマオに向かう二人の弟子に、復活されたイエスが現れ、道を共にしながら、彼らに聖書を説き明かして、信仰に導いた出来事である。

 自分たちが師事していたイエスを失い、悲しみと失意に沈んでいた弟子たちにイエスはまず「近づき」、「一緒に歩き」、「問いかけ」、「語り」、「説明し」、「中に入り、食卓に着き、パンを取って賛美をささげ、パンを裂いてお渡しに」なった。そして弟子たちがイエスだと分かると、見えなくなる。弟子たちはイエスが「パンを裂いた」ときに初めてイエスであることが分かった。

 ユダヤ人にとって、「パンを裂く」ことには次のような意味があった。第一は、家庭で食事を始める合図として、主人であるお父さんがパンを裂いた。第二は、亡くなった人の遺族を慰め、力づけるためにパンを裂いた(エレ16:7)。第三は、神の民の一員として、飢えた人を助けるために自分のパンを裂かねばならなかった(イザ58:7)。

 イエスの「パンを裂く」行為には、この三つの意味がすべて込められている。イエスは客であるにもかかわらず、あの最後の晩餐のときのように、その食事の主人としてパンを裂いた(マタ26:26、マコ14:22、ルカ22:19)。それはまた、イエスを失って、絶望していた弟子たちを慰め、力づけるためだった。イエスの慰めと力づけによって弟子たちの「心は燃えた」。ちなみにヘブライ語の「慰める」とは「心を温める」ことを意味する。さらに大切なことは、「パンを裂く」ことは、ご自分を裂いて貧しい人に与え尽くされたイエスの生き方の象徴であるということだ(マタ14:19; 15:36、マコ8:6)。「裂く」(パラス)というヘブライ語は元来、動物のひづめが二つに分かれている状態を表す。そうであるなら、「パンを裂き与える」とは、パンのひとかけらを与えることではなく、真っ二つに割ってその半分を与えることなのだ。回心したザアカイは「財産の半分を貧しい人に施します」と言った(ルカ19:8)。このように考えるならば、イエスは「パンを裂く」ことによって、ご自分に従おうとする者の生き方を示されたと言えよう。

 初代教会において、ミサは「パンを裂く」ことと呼ばれた(使2:46; 20:7,11; 27:35、1コリ10:16)。ミサにおいて司祭が真っ二つに裂くパンをいただくわたしたち一人ひとりが、イエスのように自分を「裂く」ことができるように、いただくご聖体によって力づけられたい。