復活節第5主日A

福音=ヨハネ14:1‐12


「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6

 

 今日の福音では、「道」が中心的なテーマとなっている。「その道」(4、5節)をめぐって、イエスと弟子たちの対話が続く。そこでは「行く」ということが問題にされる。

  2節 あなたがたのために場所を用意しに行く(ポレウオー)。

  3節 行って(ポレウオー)、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て(エルコマイ)、あなたがたをわたしのもとに迎える。

  4節 わたしがどこへ行く(ヒュパゴー)のか、その道をあなたがたは知っている。

  5節 主よ、どこへ行かれる(ヒュパゴー)のか、わたしたちには分かりません。

  6節 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く(エルコマイ)ことができない。

12節 わたしが父のもとへ行く(ポレウオー)からである。

 さらに28節では、イエスは弟子たちに、「わたしは去って行く(ヒュパゴー)が、また、あなたがたのところへ戻って来る(エルコマイ)」ことを確認する。イエスは、いったん「帰って」(ヒュパゴー)また「来る」(エルコマイ)。それは生から死へ、死から生へという「過越し」の道であり、これを信じる者に永遠の命をもたらす救いの道である。

 イエスが父のもとに「行く」と言うときの「行く」(ポレウオー)という語は、「通路」(ポロス)に由来する。つまり、イエスが父のもとに「行く」のは、イエス自らが父への「通路」となるためなのだ。だから、イエスは「わたしは道である」と言う。父への「通路」はイエス以外にはない。したがって、その道を間違えないために、イエスのことをよく知らなければならない。イエスこそ、父のもとに至る唯一の正しい道なのだ。だから、イエスは「わたしは真理である」と言う。

 そして、このイエスの道は、父からの命をもたらす「通路」となる。この道はいわば命のパイプなのだ。だから、イエスは「私は命である」と言う。

 このようにして、イエスを信じ、愛する者は、イエスという道を通って、御父のもとに行くことができる。しかし、イエスを信じない者は、イエスの「行く」(ヒュパゴー)所に、「行く」(エルコマイ)ことができない(ヨハ8:21)。

 14章の結びで、イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう(アゴー)」と言う。ここでの「行く」(アゴー)は「(何かに導かれて)行く」を意味する。信じる者を導くのは、言うまでもなくイエスご自身である。それは宣教という「大きな業を行う」(12節)ためだ。ミサの結びで司祭が唱える「行きましょう」という言葉で、皆が福音を伝えるために派遣される。