王であるキリストC年

福音=ルカ23:35-43


「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23:37

 

 古代オリエント世界において、「王」とは「神王」、すなわち自らの王権を神との父子関係によって権威づける王だった。これに対して、イスラエルにとって王とは神の支配を地上で代行する存在であった。そもそもイスラエルの王政は、周辺諸国に比べてはるかに遅れて導入された。それは、王に対して否定的な考えが根強かったからである。他のオリエント諸国では、国の起源を神話的に語るが、イスラエルはそのような神話を持たない。イスラエルとは、神によって奴隷の家(エジプト)から解放され、自由にされた民のことだからだ。イスラエルをイスラエルたらしめているのは神の救いの出来事であって、歴史のうちに出来事となった神の業が、イスラエルを生み出したと言える。イスラエルの自己理解が神の解放の業に基づいているのなら、生き方の中心に置かれるべきものは当然、神である。神が彼らに自由を与え、約束の地で生きる恵みを与えたのだから、彼らには神以外の支配者がいてはならない。しかし、紀元前11世紀後半に、隣国ペリシテの脅威にさらされたイスラエルは独立を守るために、やむなく王政に移行した。王の職務は神の意志を現実社会に実現することであり、王を仲介して、神の慈しみが地上に満たされる-これが理想の王の姿と考えられた。王は誰よりも「神に従う人」でなければならない。しかしながら、現実の王は自分の財産と地位を保つことに懸命で、この理想像から遠く離れていたので、いつの時代の王も批判の対象となった。

 イエスが生涯をかけて宣べ伝えた「神の国(支配)」とは、こうした旧約時代を通して受け継がれてきた理想の実現と言える。それは人が人を支配するあり方そのものを越えたところに初めて実現するものである。イエスが十字架上で約束する「楽園」(ルカ23:43)とは、まさに人間が神への背きによって喪失したあの「楽園」の回復なのだ(創2:8)。古代オリエント世界では、労働は苦役とされて奴隷に押し付けられ、支配者だけが安息を享受していた。このような労働観に対して、イスラエルの民は労働も安息も神に由来するもの、すなわち聖なるものと考えて、すべての人がこの神の安息と労働に等しくあずかるという神のことば-十戒の第四戒-を知り(出20:9、申5:13)、「神の前にすべての人は平等」という人間観を掲げたのである。

 王は神の思いがどこにあるかを知り、それを忠実に実行しなければならない。イエスは王のなすべきことを果たすが、それは人の上に立つことによってではなく、十字架によってである。彼は十字架につけられる者として神の支配を地上にもたらそうとする。イエスによって示されたこの神の国の福音こそが、人が人を支配するあらゆる制度を打ち砕く力となる。